島津退き口A

島津義弘陣跡〜勝地峠

開戦は8時。一進一退の攻防が続く中、12時ごろ小早川秀秋が寝返り。
1時すぎには西軍は壊滅状態、宇喜多秀家も戦場を離脱。
戦場も静まり、敗戦が確定的になった2時、島津の撤退が始まります。
『後へ退るのは愚である。相手の意表を衝く、前に突き進む。』
『われわれはこの引揚げで、世に比類なき薩摩の武勇を示す。』
敵中突破、これがのちに言う『島津の退き口』である。

島津義弘陣跡→家康本陣跡→東首塚→本多忠勝陣跡
→伊勢街道→烏頭坂→琳光寺→牧田川→勝地峠



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再び、島津義弘陣跡。
西軍の敗戦が明らかになった中、
誰もが、島津の降伏を予想したが、
『鋒矢(ほうし)の陣形を取れ!』
突如、敵中突破の行軍。
約600名で東軍3万の中へ
先鋒は甥の島津豊久隊、
殿軍は長寿院盛淳。
黒田長政軍、細川忠興軍の
前を通り、北国街道から中山道へ
福島正則も道を開けたが、
養子の正之の陣と衝突。
島津豊久の手勢250は苦も無く
福島正之勢1千を打ち砕きました。
家康の特命を受けた徳川軍最強の
井伊直政勢、本多忠勝勢が
島津の前面を遮り、蹂躙。
しかし、その間を抜け家康陣に迫る。
家康まで一町、相手の顔色や表情の
わかる距離まで迫った。 が、
方向転換し、伊勢街道、烏頭坂へ。
残る兵は2〜300。
東首塚。  家康が首実験をした後の首を祀っています。
東西両軍の戦没者を祀っています。
東首塚は、井伊直政の兵3600、
松平忠吉の兵3000、
の陣跡でもあります。
松平忠吉は家康の四男で
井伊直政の娘婿。
井伊直政は徳川四天王の1人。
本多忠勝陣跡。
本多忠勝は徳川四天王の1人。
手勢わずか500。
残りの兵3000は嫡男忠政が
中山道の秀忠軍に属していた。
左の道からやってきました。
伊勢街道です。
道標には『左旧道』

前方を塞ぐ藤堂高虎隊、京極高知隊
を突破して、烏頭坂へ向かいます。
烏頭坂。
幟の右の碑には『島津豊久の墓』
島津の退き口と島津豊久の解説。
『島津中務大輔豊久之碑』
左には『烏頭坂 島津豊久戦死處』の碑もありました。
この地で、島津豊久は井伊直政、本多忠勝を頑強にくい止めた。
上石津牧田。
この建物は何でしょう?
やはり、伊勢街道。
大神宮の石灯籠です。
「太」ではないですね。
琳光寺前に解説版。 小学校跡地にある
『阿多長壽院盛淳之碑』
少し奥にありました。
琳光寺です。
境内には盛淳の墓があります。
盛淳も義弘の影武者として、
15騎と共に、井伊直政、松平忠吉を
一度は七・八丁押し戻した。
そして、この地で果てました。
義弘が徒で牧田川を越えるころ、
ステガマリ戦法に出た。10数名。
ステガマリとは、本隊の離脱を
助けるため、士卒を点々と残して
退却する戦法である。敵が5,6歩に
迫ったとき、ステガマリは銃を構え、
狙い打つ。捨て身の戦法である。
井伊直政は、右腕を打ち砕かれ、
松平忠吉も重傷を負った。
勝地峠への道です。
灯籠を曲がります。
島津隊もこの辺りでわずか約30名。
3手に別れて、走りに走りました。
伊勢街道の石碑がありました。 勝地番所跡の碑。
この辺りで、井伊、松平の追撃は 終わりました。
時刻は午後四時ごろ、家康の撤退命令がでました。
このとき、島津隊は主従13名にまでなっていました。
勝地峠です。解説板もあります。
今は舗装路になっていますが、当時は細く相当険しかったのでしょう。

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